海前寺について
海前寺とは、このお寺は、永和2年(1376)頃、厳阿上人によって小坪漁民の為の念仏道場として建立されました。海前寺の名前の通り、海の見える穏やかで風光明媚な景勝地として栄え、江戸時代には時宗歴代上人や本山役僧の隠居所的性格をもっていました。 裏山には、治承4年(1180)源頼朝旗揚げの際、 三浦・畠山が戦った小坪坂古戦場、永正10年(1513)には北条氏と三浦氏が激しい攻防戦を繰り広げた住吉城址などがあります。
海前寺の縁起
小坪は縄文時代の土器が披露台から発掘されている程ですから、太古から人間が生活していたことがわかります。記録の上で小坪の地名が出てくるのは、鎌倉幕府の事歴を記録した歴史書「吾妻鏡」や「源平盛衰記」に散見されます。血腥い合戦を繰り展げられましたが、頼朝や頼家などの将軍が海上遊覧を楽しんだ記録など、穏やかで風光明眉な、然もひっそりとした静かな漁村でした。 海前寺は、このような景勝地にあって時宗一の眺望を誇る寺として大きな存在です。 当海前寺は供養山・三宝院と称し、時宗清浄光寺(遊行寺)の末寺であります。厳阿上人によって開山されましたが、寺容が整ったのが永和二年(1376年)頃と思われます。時宗総本山遊行寺が創建されてから51年後になります。この時代は南北朝時代で、朝廷が南朝と北朝にわかれ、対立抗争した内乱の時代でした。 又、将軍足利義満が京都室町に花の御所を造営した頃でした。それより以前、鎌倉時代に起こった新しい仏教の特徴は、貧富貴賤を問わず誰でも平等に救われると云う教えでした。こうした時代を背景に、海前寺は小坪漁民の為の念仏道場として健立されました。 もともと総本山清浄光寺(遊行寺)の役僧が当時の住持職を兼務することが多く、遊行寺の隠居所的性格をもっていました。偶々住職がなく、比丘尼の住んでいた文久二年(1862年)十二月十七日の別時法要(特定の日に限って行う念仏法要)の夜、失火のため、鐘楼堂を残して本堂庫裡共に灰儘に帰してしまいました。残った鐘楼堂も明治以前に自然朽廃消滅したと云われます。その火災で寺宝の多くは焼失してしまったとのことです。翌文久三年(1863年)鎌倉光明寺末の報身院の観音堂をもらい受け仮本堂とし、慶応元年(1865年)修復改造築が成されたと思われます。
小坪は縄文時代の土器が披露台から発掘されている程ですから、太古から人間が生活していたことがわかります。記録の上で小坪の地名が出てくるのは、鎌倉幕府の事歴を記録した歴史書「吾妻鏡」や「源平盛衰記」に散見されます。血腥い合戦を繰り展げられましたが、頼朝や頼家などの将軍が海上遊覧を楽しんだ記録など、穏やかで風光明眉な、然もひっそりとした静かな漁村でした。 海前寺は、このような景勝地にあって時宗一の眺望を誇る寺として大きな存在です。 当海前寺は供養山・三宝院と称し、時宗清浄光寺(遊行寺)の末寺であります。厳阿上人によって開山されましたが、寺容が整ったのが永和二年(1376年)頃と思われます。時宗総本山遊行寺が創建されてから51年後になります。この時代は南北朝時代で、朝廷が南朝と北朝にわかれ、対立抗争した内乱の時代でした。 又、将軍足利義満が京都室町に花の御所を造営した頃でした。それより以前、鎌倉時代に起こった新しい仏教の特徴は、貧富貴賤を問わず誰でも平等に救われると云う教えでした。こうした時代を背景に、海前寺は小坪漁民の為の念仏道場として健立されました。 もともと総本山清浄光寺(遊行寺)の役僧が当時の住持職を兼務することが多く、遊行寺の隠居所的性格をもっていました。偶々住職がなく、比丘尼の住んでいた文久二年(1862年)十二月十七日の別時法要(特定の日に限って行う念仏法要)の夜、失火のため、鐘楼堂を残して本堂庫裡共に灰儘に帰してしまいました。残った鐘楼堂も明治以前に自然朽廃消滅したと云われます。その火災で寺宝の多くは焼失してしまったとのことです。翌文久三年(1863年)鎌倉光明寺末の報身院の観音堂をもらい受け仮本堂とし、慶応元年(1865年)修復改造築が成されたと思われます。