時宗について
時宗の教義
時宗は、文永11年(1274)一遍上人(1239〜1289)によって開かれました。 その教えは、大慈悲の阿弥陀仏におまかせ帰命する只今のお念仏が一番大切なことです。 家業につとめはげみ、むつみ合って、只今のひととき一瞬(ヒトトキ)が充たされるなら、人の世は正しく生かされて明るさを増し、皆倶に健やかに長寿を保つことになります。浄土への道は、そこに開かれるとする教えです。 総本山は、神奈川県藤沢市にある藤沢山無量光院清淨光寺(通称 遊行寺)です。
時宗は、文永11年(1274)一遍上人(1239〜1289)によって開かれました。 その教えは、大慈悲の阿弥陀仏におまかせ帰命する只今のお念仏が一番大切なことです。 家業につとめはげみ、むつみ合って、只今のひととき一瞬(ヒトトキ)が充たされるなら、人の世は正しく生かされて明るさを増し、皆倶に健やかに長寿を保つことになります。浄土への道は、そこに開かれるとする教えです。 総本山は、神奈川県藤沢市にある藤沢山無量光院清淨光寺(通称 遊行寺)です。
時宗の開祖 一遍上人
一遍上人(松寿丸−隨縁−智真)は、延応元年(1239年)伊予(愛媛県)の豪族河野通広の二男として誕生され、十才で仏門に入り、天台学・真言念仏・浄土学等を学んだが、一度在俗の身となり、妻帯もし、子供もありました。然し孤独無常の思いは募り、家も田畑も投げ捨て、三十六才の時、妻と子供を伴って僧衣に身を包み、諸国遊行の旅に出発しました。
文永十一年(1274年)紀州熊野本宮に於いて、一切衆生の往生は、ただ南無阿弥陀仏によってなされる事を悟り、いよいよ他力本願の真髄を感得され、智真を一遍と改め、衆生済度の新しい道を求めて、西は九州鹿児島から、北は奥州江刺(岩手県北上市)まで及ぶ念仏賦算(南無阿弥陀仏と念仏を唱えてお礼を配ること)の遊行(僧が各地をめぐって自ら修行し説法教化すること)が、十六年間続けられました。身には粗末な衣をまとい、素足同然の姿で粗食に甘んじ、野に臥し困難苦渋の旅でした。
正応二年(1289年)死が近いのを覚った一遍は8月10日、兵庫県の観音堂に於いて、所持された書籍の阿弥陀経を誦みながら悉く火中に投じ「一代の聖教みな尽きて、南無阿弥陀仏になり果てぬ」と仰せられて終に8月23日辰の刻(午前7時頃)の勧行の時、禅定に入るが如く静かに大往生を遂げられました。時に51才でした。
一遍上人は自己の栄達や宗派を作る意図はなく、堂塔や伽藍を建てたり、書物を書き残すこともなく、又、欲望や執着を悉く捨て、只管無差別平等の念仏を伝えたので、捨聖と呼ばれました。一刻一刻を重んじ、不確実な明日を当てにすることなく、充実した今現在を精一杯生きることを身を以って教えられました。
一遍上人(松寿丸−隨縁−智真)は、延応元年(1239年)伊予(愛媛県)の豪族河野通広の二男として誕生され、十才で仏門に入り、天台学・真言念仏・浄土学等を学んだが、一度在俗の身となり、妻帯もし、子供もありました。然し孤独無常の思いは募り、家も田畑も投げ捨て、三十六才の時、妻と子供を伴って僧衣に身を包み、諸国遊行の旅に出発しました。
文永十一年(1274年)紀州熊野本宮に於いて、一切衆生の往生は、ただ南無阿弥陀仏によってなされる事を悟り、いよいよ他力本願の真髄を感得され、智真を一遍と改め、衆生済度の新しい道を求めて、西は九州鹿児島から、北は奥州江刺(岩手県北上市)まで及ぶ念仏賦算(南無阿弥陀仏と念仏を唱えてお礼を配ること)の遊行(僧が各地をめぐって自ら修行し説法教化すること)が、十六年間続けられました。身には粗末な衣をまとい、素足同然の姿で粗食に甘んじ、野に臥し困難苦渋の旅でした。
正応二年(1289年)死が近いのを覚った一遍は8月10日、兵庫県の観音堂に於いて、所持された書籍の阿弥陀経を誦みながら悉く火中に投じ「一代の聖教みな尽きて、南無阿弥陀仏になり果てぬ」と仰せられて終に8月23日辰の刻(午前7時頃)の勧行の時、禅定に入るが如く静かに大往生を遂げられました。時に51才でした。
一遍上人は自己の栄達や宗派を作る意図はなく、堂塔や伽藍を建てたり、書物を書き残すこともなく、又、欲望や執着を悉く捨て、只管無差別平等の念仏を伝えたので、捨聖と呼ばれました。一刻一刻を重んじ、不確実な明日を当てにすることなく、充実した今現在を精一杯生きることを身を以って教えられました。